大阪 北新地 すなくら 勇花

毎日文化センター主催のイベントに申込みました。第1回目の11月には堺市旧市内と伝仁徳天皇陵を歩いて来ました。

”妙国寺にて仁王さんに負けじと頑張るポーズをしましたが・・・”
”九間町東二丁”と云う様に、堺市の”丁名”には”目”が有りません。
目をつけると順位が付くと云って付けないそうです。昔から自治意識の高さの表れとのことです。

“土佐十一烈士切腹の妙国寺”
ここを訪ねたのは平成22年でした。こんな写真を掲載していると罰が当たると思いつ、悲痛な歴史の事を説明せぬままに平成24年6月となってしまいました。なまけていないで、少しでも多くの人に知って頂かねばと思い「堺事件」の事を書きます。

幕末の慶應4年(1868年)フランス兵が堺で暴れ、鎮圧に向かった土佐藩士と衝突、死傷者が出て国際問題になり、フランス側は激怒、土佐藩士20人の切腹と賠償金を要求、明治新政府は断ることは出来ず (日本は今も昔も外交交渉下手)20人の選定はくじ引きで行なったともいう。妙国寺の岡部日聡貫首は「森鴎外の『堺事件』ではオレもオレもと手を挙げたとある。打ち首では罪人、切腹なら代々忠義の武士と誇れる。 土佐藩士の多くは田畑を耕しながらの下級武士だったから」とのこと。妙国寺の有名な大蘇鉄(そてつ)の前で切腹、そのあまりの凄惨さに、立ち会ったフランス側は色を失い、11人の腹を切ったところで 「もう結構」と取りやめになったとのこと。時代も揺れ、価値観も揺れ、時代の変革期の礎となって若い藩士が死んでいった。

今の私たちの幸せは無数の不条理に、尊い命を落としていった人々の歴史の上にある事を一人でも多く知り、感謝を忘れてはなりません。 この「十一烈士の墓」は妙国寺には無い。向かいの宝珠院に甕に納めて葬られている。この経緯にも、時代の不条理! 死を免れた9人は土佐に送り返され流罪に処せられたという。不条理な裁き!このような歴史をおろそかにして現代を生きていますと、大きく誤った時代の波をかぶり、泣かなければならない時代となるのではと不安になる。

“堺市てくてくロード道標と私の靴”

“堺市 九間町”

自治と進取の「堺」大阪・堺の偉人、河口慧海と与謝野晶子、茶の歴史、紹鴎・利休のこと、奥深い堺にてくてく行って下さい。楽しいですよ。
【古地図で散歩する大阪(2)】
12月はJR環状線玉造駅から、真田幸村出城―>真田山軍人墓地―>
瓦土取り場跡―>空堀―>直木三十五文学碑―>東雲稲荷神社―>太閤下水
まで熊野街道を何度も横切り谷町4丁目辺りまで歩きました。

1月は梅田繁華街の中国街道から能勢街道を通り、綱敷天神―>万歳橋跡
―>茶屋町―>萩乃橋碑―>冨島神社―>佐伯祐三(1898−1928)の
生家―>中津川運河跡―>十三大橋―>淀川―>十三渡し碑―>北野高校と
歩きました。

真田山出城

佐伯祐三生家